本日は富士浅間神社例祭です。暑さで目が回りながら富岡八幡宮に行ってきました。
7月1日から山開きとなります。江戸時代は6月1日で、参詣者が富士塚に登り、疫病除けの「麦藁蛇」を持ち帰りました。
現在の富岡八幡宮にも小さい富士塚があり、疫病除けの「大蛇守」が授与されます。今年もまだコロナが収まらす、「大蛇守」に頼るしかありません。
富岡八幡富士についてはこちら↓
刀傷を負った侍は、幻宗の手術で一命を取りとめた。翌日、侍の経過を診ようと訪れた新吾に、屋敷の門番はそんな侍などいないと告げる。狐につままれた思いのまま帰宅した新吾に、こんどは義父順庵が、患家の内儀と手代が失踪したと告げる……。、好評シリーズ第六弾! (「BOOK」データベースより)
新吾はひと月ほど前から寝たきりになった吾一の住む北森下町に向かうが...。北森下町にあるこちらに伺いました。
長慶寺です。こちらには松尾芭蕉翁句塚があります。芭蕉が没した後、門人の杉山杉風・宝井其角・服部嵐雪などが芭蕉の歯と句を埋めて造ったと塚です。
戦災でかなり傷んだとは聞いていましたが、雑草等でこれがそうなのか少し不安です。
近くの公園の公衆トイレ外壁には長慶寺の様子が描かれています。
近くには深川七福神の深川神明宮があります↓
こちらが永代橋です。元禄11(1698)年、江戸時代で隅田川にかけられた最長の橋になります。
名前の由来は五代将軍綱吉の50歳を祝って付けられたとも云われています。当時の浮世絵を見ること橋脚が高く、船の出入りが多かったことがわかります。
元禄15(1702)年、吉良上野介を討ち入りした赤穂浪士が泉岳寺に向かう途中に永代橋を渡っています。
近くにある赤穂浪士休息の地の碑です。お店の主と赤穂浪士の大高源吾は俳人で、其角の門下として交流があり、この場所で甘酒がふるまわれたと云われています。
文化4(1807)年、富岡八幡宮の例祭には大勢の人が押し寄せて橋が崩落、1400名を超える死者・行方不明者を出す大惨事が起きました。
深川の海福寺では永代橋の崩落で亡くなった人々を供養するため供養塔が建てられました。なお、海福寺は明治43年に目黒に移転し、現在、江東区立明治小学校が建っています。
参考文献
大石 学「新江戸百景めぐり: TOKYOで”江戸”を再発見」小学館 (2019)
木場二丁目公園内にある七代目市川團十郎宅跡です。場所は東西線木場駅の近くにあります。
四代目が木場島田町に邸宅を構えて以来、七代目團十郎まで市川家は代々居住していました。
江戸時代に活躍したのは初代から八代目。七代目が最も有名で家芸の荒事の他に四代目鶴屋南北の世話物も好演しました。
しかし、天保改革における奢侈禁止令に違反したとして江戸を追放されます。奢侈禁止違反の理由のひとつに御影石の燈籠と載っていますが、右にあるのがそれでしょうか。
成田山新勝寺のホームページを見ると、「江戸を離れることになった七代目を成田山では延命院に住まわせ、かくまいます。」と載っています。
参考文献
山本 博文「江戸時代 人名控 1000」小学館 (2007)
阿茶局のお墓がある雲光院です。場所は大江戸線・半蔵門線清澄白河駅の近くにあります。阿茶局の法號「雲光院」がそのまま寺の名前となりました。
絵図を見るとかなり大きな敷地で、徳川幕府にとって阿茶局がどれほど重要であったかを表しています。
阿茶局は武田氏の家臣飯田直政の娘で、今川氏の家臣神尾忠重に嫁ぎましたが、天正5(1577)年に忠重が死に未亡人となります。
天正7(1579)年、徳川家康に召し出され、家康の側室になります。側室といっても少し変わっていて、家康の戦に従軍して側に仕えていました。
家康に信頼され、大阪冬の陣では和睦の使者として大阪城に入りました。ドラマ「真田丸」の斉藤由貴です。
その後、2代将軍秀忠の娘和子が入内のとき「御母堂代」として上洛し、従一位を贈られ神尾一位殿と称されました。
参考文献
山本 博文「徳川将軍15代」小学館 (2011)